2023年11月12日(日)に岐阜県揖斐川町で開催された「いびがわマラソン2023」において、コース上で突然の心停止に見舞われたランナーが、迅速な一次救命処置によってその尊い命を救われました。
関係者へのインタビューとコメントをもとに、救護医療体制と安心・安全への取組についてご紹介いたします。
揖斐川町役場の職員であり、いびがわマラソン事務局の救護担当として大会運営に関わられている小寺悠太さんにお話を伺いました。
いびがわマラソンは、岐阜県の揖斐川町を舞台に1988年に始まり、2023年で34回目を迎えた歴史のある市民マラソンとして知られています。紅葉に彩られた揖斐川沿いを走る自然豊かで起伏に富んだコースと、沿道の町民からの温かな声援とおもてなしが魅力で、毎年多くのランナーが参加しています。
新型コロナウイルス感染症の流行により、2020年と2021年大会はやむなく中止になりましたが、2022年より再開しました。難易度の高さで知られる山間コースが、落石による道路の通行止めでコースを使用できなくなったため、2022年以降はハーフマラソンを開催しています。
1989年より米国ユタ州セントジョージ市と姉妹マラソンの提携をはじめ、さまざまな文化交流も促進しています。揖斐川町とセントジョージ市それぞれのマラソン大会で優秀な成績を収めたランナーを翌年互いのマラソン大会へ招待し、滞在中は一般家庭にホームステイしながら、現地の生活と文化を体験します。両町民・市民は、マラソンを通じて友好関係を築くだけでなく、近年では中学生と学校関係者間の交流も行われています。
いびがわマラソンは揖斐川町の町民にとって、いちスポーツイベントを超えた文化的な財産となっています。
長年、いびがわマラソンメディカル委員会の中心として携わっている岐阜大学医学部附属病院看護部の林賢二さんに救護医療体制構築の経緯や特徴などについてお話を伺いました。
2009年の大会において、ランナーがコース上で心停止を起こし亡くなったことをきっかけに、ランナーの皆さんに安心して参加いただける大会づくりを目指して、岐阜大学や揖斐郡内の医師会などに協力を仰ぎ、2013年にメディカル委員会を発足しました。
大会本部、救護班、AED隊それぞれが情報共有できる一元的な救護体制をとるために組織を作り、そこから具体的な方法などを整備していきました。
いびがわマラソンが地元密着型の楽しい大会から、それだけではない安心・安全な大会へとその在り方を変えるターニングポイントになりました。
いびがわマラソンでは、スタート・ゴール・コースの複数箇所に配置された「救護所」、AEDを携行しコースを自転車で巡回する「自転車AED隊」、コース上の誰でもわかる場所のキロポイントすべてに配置された「定点AED係」、医師・看護師・救命士などの医療従事者による「メディカルランナー」と充実した救護体制が敷かれています。"ハートサポートランナー"と呼ばれるメディカルランナーはもちろん、自転車AED隊も医療従事者で構成されており、定点AED係も救急救命士専門学生や医学生・看護学生が任務を担っています。地方都市で開催されるマラソン大会 としては医療者や医療を志す人たちが多く参加していることも特徴的ですが、それにはいびがわマラソン特有の事情があります。
街中は脇道があるので病院へ運べますが、いびがわマラソンのような山間部のマラソンは脇道がありません。救急車で現場到着して傷病者を病院へ運ぶまでのアクセスが悪い。そうなると現場での迅速で質の高い蘇生処置が必要なため、医療従事者による迅速で的確な救護が求められます。また、早期発見・対応するためには、本部が情報を一元管理する必要もあります。
岐阜大学がメディカル委員会に参画しているため、ドクターヘリを要請した際の事前の調整もスムーズに行うことが可能です。
いびがわマラソンの安心・安全を支えているのは、医療従事者だけではありません。揖斐郡消防組合消防本部の協力を得て、当日ボランティアとして参加する町役場職員、保育士の方などを対象にAED講習会を行っています。
蘇生法を知っている職員がより多くいたほうがよいということから、ひいてはそれが「安心・安全な町づくり」に繋がっていくため、講習会開催に至りました。講習会では地元の病院、看護師さんたちにも協力をいただいています。
町をあげての大会だからこそ、町じゅうが一体となって大会を創りあげ、それがマラソンだけではなく安心して暮らせる町に繋がっています。
いびがわマラソンでは、2013年から「ZOLL AED Plus」が使用されています。岐阜大学医学部附属病院の林さんが、2011年にAHA(アメリカ心臓協会)で胸骨圧迫のフィードバック機能付きAEDを使ったCPRチャレンジ*に参加したことがきっかけです。
胸骨圧迫の質を救助者にフィードバックする機能が一般の人にどの程度効果があるのか興味を持たれ、フィードバック機能(胸骨圧迫ヘルプ機能)付きAEDを販売していた旭化成ゾールメディカルにご相談をいただきました。
圧迫の深さが足りない場合に「もっと強く押してください」と音声とテキスト表示でガイドするAED Plusは、AEDを使い慣れていない人や、胸骨圧迫を怖いと感じている人にも使いやすいと好評をいただいています。また、救命講習においても、講師が目視で受講者に「もっと強く」と言うよりも、AEDが教えてくれる方がわかりやすいことからAED Plusが採用されています。
メディカル委員会発足、充実した救護体制が敷かれた2年後、2015年の28回大会において40代の男性ランナーがコース上で心停止を起こし倒れました。幸いそばにいたランナーに発見され、すぐに救護スタッフが駆け付け胸骨圧迫を開始、ほどなくしてAEDが到着し電気ショックが行われ、その後も胸骨圧迫を継続することによりランナーの意識が回復し、無事に救命されました。
*CPRチャレンジ:胸骨圧迫の質(速さ・深さ)に対するフィードバック機能搭載のAEDを用いて、AEDのフィードバックに従いガイドラインが推奨する質に近づけるよう2分間の胸骨圧迫を行い、そのスコアを競うイベント
参照:旭化成ゾールメディカル「いびがわマラソンでの救命事例」
当日の天候は曇り、気温は11~12℃で、ランナーにとっては走りやすいコンディションでした。セントジョージ市から参加した50代の米国人女性ランナーが心停止を起こしたのはスタート地点からわずか2㎞ポイントでした。ランナーの夫が声をかけながら伴走していましたが、本人の様子が優れないと気づいた途端に意識を失い倒れました。近くを走っていたメディカルランナーの安田医師がすぐに駆け付け救護にあたりました。また、自転車AED隊が速やかにAEDを届け、最初の電気ショックで女性ランナーの心拍が再開し意識を取り戻しました。わずか約2分間の出来事でした。その後、救急車で病院へ運ばれましたが、回復も早く容態が安定していたことと本人の強い要望もあり、翌日退院することができ元気に帰国しました。
迅速な救命活動を可能にした救護医療体制について、救護本部で責任者として指揮をとられた岐阜大学医学部附属病院高次救命治療センターの三宅喬人さんと揖斐川町役場の小寺さんにお話しを伺いました。
救護や医療処置が必要な事案が発生した場合には、救護本部が情報を一元管理できるようになっています。コース上にAED隊のどのメンバーがいるかも、本部がGPS(位置情報測定)で把握しているので、無線でAED隊に速やかに情報共有を行い、近くにいた自転車AED隊を派遣して迅速に対応してもらいました。AEDが到着するまでの間、メディカルランナーが胸骨圧迫による心肺蘇生処置を行いました。早期の電気ショック、効果的な治療につなげていくために情報の一元化は非常に重要であり、今回はタイムロスがなくうまく機能しました。
いびがわマラソンは坂が多いコースとして知られていますが、2㎞付近は坂があったわけでもなく、傷病者も高齢ではなく、心停止の発生を予測しがたい場所ではありました。しかし、経験を積んだランナーでも序盤で不整脈や合併症で倒れるケー
スの報告があるので、コース全般にわたって起こりうる前提で体制を整えていまし
た。(三宅さん)
救護人員の約80%は医療従事者です。残り20%はボランティアの方々で、医療従事者の管理・運営をメインにサポートしていただいています。2023年大会はハーフマラソンでしたが、約250名を配置し、そのうちドクターランナーは67名でした。多いという印象もありましたが、今ではこれくらいいたほうが良いと感じています。AEDは39台配置しました。コースの重複があり、自転車AED隊の人員は少し減り20人となりましたが、ハーフになっても救護体制を縮小してはいけないというのがメディカル委員会の方針です。(小寺さん)
参照:いびがわマラソン公式サイト「メディカル委員会」
「いびがわマラソンで命を助けてもらった幸福に、日々感謝の気持ちを持って生きています。
マラソン中に心停止に陥り、命の危険にさらされる事態を経験しましたが、医療関係者の迅速かつ専門的なケアとZOLL AED Plus のおかげで救命されました。
揖斐川町、いびがわマラソン実行委員会とその支援に携わった皆さま、勇気ある医療従事者やイベントをサポートしてくれたスタッフを含む関係者の皆さますべてに心より感謝を申し上げます。」
女性ランナーは、過去に何度もフルマラソンを完走し、3~4時間の記録を持つ経験豊かなランナーでした。セントジョージ市を代表して参加したいびがわマラソンでその尊い命が救われ、この救命によって揖斐川町とセントジョージ市の絆がより一層強まりました。
今回の救命事例をきっかけに、取組の継続性や誰をターゲットにしていくかなどの再検討が必要だと考えています。これまでもフィードバック機能(胸骨圧迫ヘルプ機能)付きのAED Plusの採用や、ドローンの活用、定点に固定カメラを設置する、GPSの無線端末の配備、タブレットで症状を入力してもらうなど、さまざまな試みを行ってきましたが、継続性も含めどのような方法で安全性を確保していくか模索していきます。
揖斐川町で開催される、歴史ある人気の大会なので、誰もが安心して迎えていただけるような救護体制を作りたいです。マラソンの救護体制を通して、胸骨圧迫やAEDの使い方、蘇生の大切さ、命の大切さへの意識がさらに広まっていけばと思います。
本文中の組織名、所属名、役職名などはすべて取材時のものです。